女中を訓練し自ら兵を指揮した立花誾千代

世の中の歴史の中には女性でありながら戦場で戦った例が多くあります。世界史ではジャンヌ・ダルクが有名です。日本史にも女性の身で戦場に立ち、兵を指揮した女性がいます。今回紹介するのは戦国時代九州の名将立花道雪の娘、立花誾千代です。

無敗の将の娘で武勇に優れる

立花誾千代は戦国時代に九州の大分県を中心に勢力を持っていた大友宗麟の重臣だった立花道雪の娘です。彼は自分が総大将を努めた戦いでは無敗を誇り、若い頃に落雷で半身不随になったにも関わらず輿に乗って戦場に立ち、戦った名将で知られています。

誾千代はそんな勇猛で知られた武将の娘でした。しかも道雪は息子に恵まれなかった上に57歳という当時としては高齢で生まれた誾千代を溺愛し自分の後を継がせるということを行ったようです。後に道雪の同僚で彼に並ぶ名将、高橋紹運の息子を婿養子に迎えました。これが後に西国無双と言われた立花宗茂です。

女中を訓練し武装させる

立花誾千代は当初父である道雪から女らしく育つようと願われていましたがそんな思いも裏腹に男勝りに育ってしまいます。しかも女性でありながら武術にも秀でていたようで、大友家に残された文書によれば道雪の娘は勇壮で城内の女中を訓練し戦いでは一斉射撃で敵を恐れさせる、といった内容の記述があります。

そんな彼女にはいくつか武勇伝が残されています。夫の立花宗茂が朝鮮出兵の際に女好きで知られる秀吉が彼女を呼び寄せようとしますが誾千代はそれに対しておつきの女中に鉄砲を持たせて護衛させ自分も武装して秀吉の元を訪れました。、さすがの秀吉もこれには手が出せなかったと言われています。さらに夫不在の城の守りは誾千代に任せてあり、侍女たちとともに敵の攻撃に備えさせていたという話もあります。

実際に戦い活躍した話も残されています。関が原の戦いでは立花宗茂は石田方に味方したため九州の徳川方の加藤清正や黒田官兵衛、鍋島直茂などの名将に居城である柳川城を攻撃されます。この時、立花宗茂は不在で誾千代が自ら甲冑を着ると鍋島勢が率いる水軍に対して鉄砲隊を率いて攻撃し撃退しています。さらに宗茂と別居中に住んでいた宮永村付近に加藤清正が進軍してきた時に清正の部下が、宮永村の住人は立花家を慕っておりこのまま進軍すれば武装してきて襲ってくる、と言われ迂回して進んだと言われています。

この様に武勇に優れた女傑としてのエピソードがあります。しかし、関ヶ原の戦いでは石田三成が敗北したため立花宗茂は柳川に戻り、九州で戦いを続けますが仲の良かった加藤清正らの説得により降伏しその後、領地を没収されてしまいました。

夫、立花宗茂とは不仲?

立花宗茂、誾千代夫妻は実は不仲だったという話があります。二人には子供がなく、柳川城に移る際には道雪の墓のある元の領地から離れるのを嫌い喧嘩になったそうです。柳川に移った頃には別居していたと言われています。しかし本当に中が悪かったか、と言われれば明確な資料があるわけではありません。誾千代は領地が没収され、宗茂が加藤清正の元に行った際に同行せず、熊本県玉名で病気にかかり亡くなりますがこの際に浪人でお金もない宗茂が立花と柳川に戻って彼女の墓を建てて弔っています。また子供ができなかったとありますがそもそも宗茂と側室の間にも子供はできなかったようです。

もしかしたら単に喧嘩がするほど仲のいいというカップルだったのかもしれません。

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