秀吉の跡継ぎ

豊臣秀次は秀吉の姉の子供で秀吉が子供に恵まれなかったことから秀吉の後継者に選ばれた人物です。幼少期は織田信長の勢力拡大のために宮部氏や三好氏の人質とし養子に出されていました。初陣では活躍できなかったもののその後の四国征伐ではおじの羽柴秀長や黒田官兵衛の補佐で軍功をあげ、小田原征伐でも活躍し秀吉が関白に就任すると豊臣性をもらうと豊臣秀次を名乗り、後に関白職を彼に譲りました。茶の湯や武術にも熱心で秀吉の跡継ぎとして非常に期待されていました。養子になった時期ははっきりとはしませんが、豊臣性を名乗る頃には養子になっていたと言われています。

手の速さも秀吉譲り?奥さんと側室は35人!

彼は秀吉にまさるとも劣らぬ女好きの側面がありました。正室は織田家の重臣池田恒興の娘がいましたが、この他にも有力貴族の娘や大名家などの美しい女性を側室にしていました。この他捨て子の娘や越前国の女郎など身分に関わらず側室にしていたようです。特に彼の話で有名なのは出羽国の大名最上義光の娘、駒姫です。小田原攻めに参陣していた秀次は秀吉に同じく参陣していた最上義光と対面した際に駒姫を気に入った秀次が彼に駒姫を側室にと願い出ますがまだ幼かったために15歳になってから京都に送るということにしたそうです。何れにせよ彼は女性関係にはかなり手の早いことが伺えます。精力もよほど強かったのでしょうか、現代のバイアグラのようなお薬を使っていたかもしれませんね。

悲劇の宰相、豊臣秀次

この様に秀吉の後を継ぐというレールを順調に進む秀次に不穏な空気が流れてきます。それが秀吉と淀君の間に生まれた秀頼の存在です。1595年に秀次は急に謀反の互いをかけられ、高野山に送られました。この理由は当時秀次が辻斬りや高野山で禁制の鹿狩を行ったなどの悪行があったためとされていますが、現在では否定的に見られており、やはり秀吉が秀次を跡継ぎにしたいがために邪魔になったからではと言われています。この悪評も秀次を妬んだものと言われており、宣教師の記録では彼がそのようなことを行ったとは書かれていません。以前から秀吉との関係が悪化していたこともあって自分の娘を秀頼に嫁がせるなどの関係修復を行いますが、秀吉の命で切腹しました。享年28歳でした

さらに続く悲劇

この出来事はさらに続きます。なんと秀吉が秀次に関わる人間、側室から部下、彼の血を引く子供にいたるまで多くを捕まえさせ、其の多くを処刑しました。子供に関しては長男が6歳という若さで処刑され中には1歳になったばかりに赤ん坊もいたようです。特に悲劇的なのが最上義光の娘、駒姫でした。彼女はこの事件の時に15歳になっており、約束通り秀次のもとに向かっている最中に事件に巻き込まれ、まだ秀次にもあってもおらず側室でもないのに彼女も捕らえられ処刑されてしまいました。これが原因で最上義光は彼女の助命嘆願に協力してくれた家康に接近し、関ヶ原にも影響したと言われています。この他、彼に従った家臣の多くが切腹もしくは打ち首になっています。この時に亡くなった女性たちは一つにまとめられ墓も作られずに埋められました。

彼の死後、その行いから秀吉の晩年に暗い影を落とし、豊臣秀頼が幼いまま秀吉は亡くなり、関ヶ原の戦いで権力を握った徳川家康に豊臣家は滅ぼされました。後に秀次と彼に関わる人々は京都の瑞泉寺にて慰霊が行なわれ、高野山に彼の墓が作られました。

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