何人もの女性を泣かせた伊藤博史

伊藤博史は、総理大臣を4度務め初代韓国総監にもなりました。大日本帝国憲法の起草・制定の立て役者であり、近代日本の基礎を築いた偉人です。最期はハルビン駅で、韓国のテロリストに射殺され生涯を終えていますが、自分を撃ったのが朝鮮人だとわかると「馬鹿な奴だ」とつぶやいたと言われます。自分の他に、漢学者の森も撃たれたと知り、「森もやられたか」が最期の言葉だったとされています。

政治的には日本の最高権力者であると同時に、女性関係でも当時日本で最も強い精力を誇った人です。

女子につよい興味を持っていた!?

政治的にさまざまな功績を残した人ですが、その中の一つに「女子教育の充実」があります。「女子教育奨励会」を創設して、東京女学館の設立にも貢献しました。津田塾大学の創設者である津田梅子とは一緒に渡米したこともあり、娘の英語教師として雇い入れたりと、深い交流がありました。二人のあいだに肉体関係があったかどうかは不明です。

伊藤博史は大の芸者好きで、掃いて捨てるほどの女性関係があることから「ほうき」というあだ名が付けられたほどです。当時の新聞にもさんざん女性関係が報じられましたが、「英雄色を好む」は男子の勲章だったのでしょう、政治的にはダメージはなかったようです。

地方に出張に行った際にも必ず芸者遊びをして女性を抱きましたが、地方では必ず二流の芸者を指名したと言われます。一流どころの芸者には、その土地の有力者の後ろ盾があるので、そうした人々との揉め事を避けるためだったそうです。女遊びをする際にも、政治的な計算はしていたようです。

日本最初のカーセックスをした人!?

ある日、伊藤博史が吉原で遊び何度か性交した帰り道で、「おきん」という芸者に出会います。伊藤はひと目で「おきん」を気に入り、そのまま馬車に乗せてカーセックスをしました。これが日本最初のカーセックスの記録と言われています。馬車を一晩中走り続けさせ、何度も性行為に及んだと言われます。翌朝までさんざん悦ばされた「おきん」ですが、「狭い馬車の中では、苦しかった」とこぼしたそうです。

博史の2度目の妻は芸妓で、遊びが本気になって結婚しました。元芸妓だけあって夫の女遊びには寛容だったと言われます。自宅に女性を「お持ち帰り」することもしばしばで、時には複数の女性を連れ帰り乱交もしていたそうです。関係をもった女性は数百人ともいわれ、政界一の絶倫男として尊敬されていたそうです。

伊藤博史は政治的にも性的にも勢力的で、明治を代表する性豪だったようです。

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