戦国のロミオとジュリエット。織田信忠と松姫

戦国時代、大名や有力者の娘などの女性の多くは他国などの関係性を強めるために嫁に出され、人質として送られることが一般的でした。中には恋愛結婚を行うパターンもありますが極めて稀な例だったようです。そんな戦国時代の中であのロミオとジュリエットのような悲劇を演じたカップルがいました。

織田信長の息子の信忠と武田信玄の娘の松姫

織田信忠と松姫は戦国時代に一躍天下取りに名を挙げた織田信長と戦国最強と言われた武田信玄の関係強化のために結ばれた関係でした。ちなみに当時信忠は11歳、松姫は7歳だったそうです。この二人の関係は良く、互いに文通や贈り物を送りあうなどお互いに会うことはありませんでしたがいい許婚同士だったようです。

しかし1572年に武田信玄が三河・遠江方面へ侵攻、三方ヶ原の戦いが起きます。この地域は織田家の同盟相手だった徳川家康の領地だったことから織田家もこれに援軍を送ることになり、信忠と松姫の婚姻関係は解消されました。武田信玄は三方ヶ原の戦いで徳川家康を追い詰めますがこの際におった傷がもとでこの世を去りました。その後、武田勝頼が後を継ぐと松姫は兄の仁科盛信の庇護を受けて過ごし、信忠は信長の後継者となっていきます。

武田氏の滅亡

それから10年ほどたった1582年。織田・徳川連合軍が長篠の戦いで武田勝頼に勝利すると本格的に侵攻を開始します。その際に信忠は信長の後継者として総大将となり出陣、活躍します。対して、松姫は兄の仁科盛信の娘達と共に現在の八王子に逃げ延びました。この頃、信忠は信長の後継者になるべく、正室を迎えていましたが松姫は信忠のことが忘れられず、独身を通していたようです。

武田氏滅亡後、信忠から松姫のもとに使者がやってきます。なんと再び妻に迎えたいという知らせでした。信忠も松姫のことを忘れてはいなかったのです。この知らせを聞いた松姫は信忠に会うべく、京都に向かいました。しかし、その頃京都では歴史を揺るがす大事件が起きていました。

本能寺の変で再び引き裂かれた信忠と松姫

この時、京都では織田信長が中国地方の毛利と四国の長宗我部を攻略するために本能寺へと入っていました。これには信忠も同行しており、信長とは別の寺、妙覚寺にいたようです。その折に明智光秀が中国攻めに加わると見せかけ、信長の本能寺を襲いました。この時信長は僅かな手勢しかおらず、弓や槍で奮戦するも寺に火を放って自害しました。

この時、信忠は信長の救援に向かおうとしますが部下が手遅れでであることと本能寺周辺を明智勢に囲まれているために近づけないことから守りの良い二条城で迎え撃つことを進言し立てこもりました。逃げ延びるよう言われたものの敵の数が多く逃してはくれないと考え、戦うことになりました。信忠の軍勢は明智勢1万に対して1500ほどしか無いのにも関わらず、1時間以上戦い続けますが抵抗むなしく、信忠は自害しました。

しばらくしてこの事件は松姫のもとにも伝わりました。彼女はその後八王子に戻り、心源院という寺で出家し武田家と信忠の供養を行いました。こうして織田信忠と松姫の関係はお互いの顔を見ること無く終わってしまったのです。

一度は許婚となり互いに文通で心を通わせますが織田、武田の関係悪化から婚約解消となり、それでもお互いを忘れられず、もう少しで出会えるはずだったのが信忠の死という悲劇を迎えました。まさに戦国のロミオとジュリエットなのです。