男性が男性に宛てたラブレター

「ホモ」とか「ゲイ」というと、現代的な性志向のように考えている人もいるでしょうけれど、非常に古くからあります。古代ギリシアでは男色が大ブームとなり、アリストテレスなど哲学者は皆、男性の愛人を持っていました。多くの場合「バイセクシャル」で、女性と性行為をもちながら、男性の愛人とも性交しています。日本でも古代から男色はありました。

日本は歴史的に見ると同性愛に寛容で、「日本書紀」や「続日本書紀」にも男色の記録があり、古くから行われていたことがわかっています。寺院の僧は女性との性交は禁じられていましたが、男性との性行為を禁じる掟はなく、しばしば公然と男性同士の性交が行われていました。奈良時代以降、かなり広まったようです。平安末期の「保元の乱」で有名な藤原頼長は、日記「台記」に男性との性交渉を赤裸々に残しました。

藤原頼長の男色

藤原頼長は、公卿から下層の市民まで幅広い男性と性交渉を持ち、それを日記に実名で書き残しました。特に貴族層とは多数の関係を持ち、政治的な戦略としても「肉体関係」を利用していたことがうかがわれます。日記に書かれている最初の相手は三位中将の「花山院忠雅」で当時19才の貴公子です。1142年の7月5日のことで、「今夜、ある三品と会交す。年来翻意を遂げおわんぬ」とあります。「今夜、三位中将と性交した。前々からの望みをかなえた」という内容です。

同じ相手との性交は何度も続き、11月23日には「ある人に謁す。本意を遂ぐ。喜ぶべし。喜ぶべし。為す所をしらず」とあり、「今日は会って、性交した。嬉しい。なすすべもなく嬉しい」と残しています。

ラブレターも書きました

男色相手の「花山院忠雅」には男性の紹介も依頼し、1144年に忠雅と車に乗って、当時18才の藤原隆季のもとを訪ねる記述もあります。ただ、この時にはうまくいかず、3年後の1147年5月3日に、「ついに本意を遂げ了えんぬ」とようやく性交できた喜びが書かれています。

3年間の間には、「泰親の符術に依るなり」「今月一日、彼人に逢ふべき由を示し送る」とあり、陰陽師である「泰親」に祈祷させたり、恋文を送り続けたりしたことがわかります。隆季からは、漢詩と和歌による返事がありました。その中で隆季は、「昇進したい」という希望を述べ、頼長は「その願いはかなうでしょう」と答えています。肉体関係を結んだ相手に、政治的な見返りを与えていたこともうかがえます。

平安時代には、公家の間では男色は広く行われていて、政治的な利用もされていました。男性にラブレターを書いたり、男性同士の間で紹介しあったりもしたようです。

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