応仁の乱を引き起こしたキャリアウーマン、日野富子

戦国時代は室町時代に起きた応仁の乱による混乱と幕府の求心力の低下によって始まりました。実はこの歴史的な事件は1人の女性がきっかけで起きたと言われています。それが歴史的にも悪女と名高い日野富子です。

室町幕府将軍足利義政の正室

日野富子の日野家は藤原氏の流れを汲む家柄で長年室町幕府将軍の正室を排出した家でした。日野富子はそんな家の出身で彼女も16歳の時に当時の将軍、足利義政の妻となります。しかし彼との間にはなかなか子供が出来ず、跡継ぎに悩みました。さらに周囲の守護大名との衝突や飢饉による政情不安定な時期が続いた事で将軍である義政は隠居を考え、弟の足利義視を後継者にしますがそれからしばらくして富子は足利義尚を生みます。このことが後継者問題へと発展していきます。

応仁の乱の原因となる

弟の足利義視と日野富子が周囲の守護大名を巻き込んで対立し始めます。さらになんとかして政治を行おうとしていた義政でしたが側近の部下が失脚したことでさらに求心力を失い、足利義視の後見人の細川勝元の東軍と日野富子の子足利義尚の後見人山名宗全らの西軍の間で武力衝突に発展、ここに応仁の乱が始まりました。義政が停戦を呼びかけるも無視され、結局10年に及ぶ戦いになりました。途中で義政が東軍に属したことで日野富子も東軍に移り逆に義視が西軍に移るなど途中で戦いの原因がよくわからない状況にもなりますが、主力の細川勝元、山名宗全が死亡しても続き、10年も戦い続けたことで国元を開けていた大名たちの中から国に戻るものも現れ、後に和睦が成立し終結しました。

この戦いにより京都の街の多くが消失しますが日野富子はこの時に米の投機などを行い、さらに両軍に軍資金の貸付を行うなどでさらに蓄財に励んでいたそうです。更には京都につながる道に関所を建て税金を取っていました。応仁の乱後の彼女の資産は現在の価値で70億円に達していたそうです。

旦那は芸術の道に

この間、義政はほとんど政治的な影響力がなくなりもっぱら芸術の道に進みます。これがきっかけで東山文化が生まれ、東山山荘で有名な銀閣寺を始めとした建築物を建てました。障子で仕切りを作って四畳半の畳を敷いた奥に床の間を配置する書院造の構造を持ち、現代の和風文化にもつながる構造です。この他にも江戸時代に活躍する狩野派や土佐派の始まりとなる土佐光信や狩野正信などの絵師を登用し日本絵画の発展もさせ生け花の原型を作るなど文化人として名を残します。ただし政治的には妻の日野富子に独占させられ、しかもこのような芸術活動に一銭も資金援助を行わない上に別居という状況でした。

本当に悪女か?

日野富子は応仁の乱の原因を作り、その間にひたすら自分の富を集めることばかりを行った悪女というイメージがありますが一方で学問に熱心で朝廷にも献金を行い、幕府の公的な資金や朝廷の日常出費にかかる費用などを寄進していたそうです。応仁の乱で商工業が打撃を受け、税収であった寺社の税も怪しくなっており、しかも旦那の義政は芸術活動にのめり込んでいたことから彼女の資金と政治力によって幕府が保っていたといえるかもしれません。応仁の乱以降もその死まで彼女は室町幕府の中で権力を握り続けました。

この様に彼女は現代で言うなら日野富子は仕事のできない夫の代わりに仕事を行っていたキャリアウーマンなのかもしれません。そう見ると悪名高い彼女のも別の見方が出来ます。

Copyright(c) 2013 日本の歴史に見る恋 ~平安時代から近代までの日本人の恋愛模様 All Rights Reserved.